前回の更新から随分経ってしまいました。
相変わらずまだカナダにいまして
ゆるりと自分のリサーチをしています。
引き続き、日本で英語学習をしていた時に
感じてきた違和感のようなものの答えが
まるで伏線回収のように回収される、
そんな日々を過ごしています。
そんな中でも今日は、
土地や暮らしが考え方に
直結する
そんな気付きのお話です。
英語の仕事で感じていた不便さ
英語学習をしていると、
あるいは仕事でネイティブたちと
英語で議論したりプロジェクトを
進行していたりすると、凄く思うこと。
相手のことなんか
一つも考えちゃいないなw
というやつです笑
特にこれは仕事の場面で顕著です。
まずそもそも、メールを見ていない。
そして、依頼したいことの
期日を設定しても、一発でそれに対して
合わせてくれることは稀というもので
何度もリマインドをし、最終的には
電話で会話してようやく納品されます。
私なんかはもうそんなスタイルに
慣れてしまったので何とも思いません。
そんな境地にまで達しましたが、
初めてまともに英語圏の海外で暮らして
ようやくそのスタイルの理由に
気付かされました。
土地が広すぎるのではないか
もちろん仮説に過ぎないわけですが
恐らくこのスタイルの根底にあるのは
土地が広すぎる
ということに集約されるのではないか。
そんなことを感じるようになりました。
北米の家は日本に比べて遥かに大きい。
そんなイメージは日本にいる頃から
漠然と持っていたのですが、
実際にきてみると本当に大きい笑
家の前に広大な庭があって、
それは割とすぐ見えることなんで
想像通りなんですけど、
実際には家の後ろにも
広大な庭がある家が多いんです。
うちの近所だけかなと思いきや、
住んでいる街の家はほぼそんな作りです。
いわゆる、バックヤードというやつですね。
そうなるとどうなるかというと、
隣との家の距離が日本と比べたら
極めて離れていまして、
隣人を気にする必要が一切無い
のです。
日本なんて地方にいったとしても
それなりの人口規模だったりするし
そもそも家の作りからいって
かなり詰め詰めで作っているでしょう。
そうなるとどうしても隣の目が気になり
逆に隣の人の迷惑にならないように…
という気配りをしなくてはいけません。
この差が言語的にも顕著に出る、
という解釈が私の中で生まれました。
相手との調和のとり方が変わる
この隣人のことを気にしなくても良い
という物理的な距離が、
そのまま言語にも出てきているっぽいです。
これは何度か触れてきたことですが
やはり英語ネイティブの多くの人は、
他人のことなど過度に気にしませんし
何か調和が取れないことがあっても
自分が変わる必要はない
と捉えている節があるように思います。
日本語話者だとこれは、
相手に合わせて自分を変えよう
と考える人がほとんどかと思います。
ですから、仕事でこちらが締切を設定しても
それは相手の都合なんだから
そんな締切なんて変えてしまえ
という発想に至る可能性はあります。
まぁ、これは極端な言い方ですけどね。
でも、突き詰めればそういう勢いです。
どちらにも良し悪し
どちらにも良し悪しがありますね。
物理的な隣人との距離というのは
圧倒的に北米式が良いと感じますが笑
やはり家はほどよく広い方が良いです笑
東京の家なんて狭いくせに嘘みたいに
値段が高いという報道ばかりですもんねぇ。
ただ、先ほど触れたコミュニケーションの
スタイルというのは、日本式に慣れると
カナダでは面食らうことが多いですね。
自分ではなく相手を変えれば良いんだ
という発想は、
商品やサービスのクオリティを
間違いなく下げるでしょう。
はっきり言いまして、
私が生活している限りでは
カナダの商品やサービスで
日本に勝るものは一つも無い
です苦笑
それも、僅差で日本の勝ち、ではなく、
日本の圧勝です。これは本当に、
日本の素晴らしいところだと思います。
逆に、そんな素晴らしい日本式も
周りに合わせることに
慣れない人達
からすればかなり厳しい社会に
なると思われます。
どちらが良いか、あるいは、
どちらで妥協するか、というのは
自分のスタイルによるんでしょうね。
あ、一応、カナダ式も擁護しておくと、
仕事のクオリティはかなりイマイチ
だと思わざるを得ないながらも
個人レベルでは皆さん
驚くほど親切&気遣いをする
印象があります。
下手したら、日本で感じるよりも
優しい人に会う機会が多くも感じます。
これは何なんでしょうね。
宗教的な背景も感じますが、
もう少し観察してみたいと思います。
でもこれも、
やはり土地の広さからくる
寛容さの表れ
として解釈することも
できる気はしますね。
他人の一挙手一投足に対して
とにかく不寛容な日本と、
いくらなんでも
寛容すぎるカナダ
結構究極の選択だなと思います苦笑
垣間見える英語脳の本質
そんなこんなで、
土地によって人々の考え方が規定され、
その考え方に適した形で
言語が発達・進化していく側面を
実は日々感じている、という話でした。
この考え方を裏付けるような出来事に
最近また出会いましたので、
それについてはまた別途書いてみます。
しばらくは、こんな感じの
ゆる~い日記が続きます苦笑